ーー中学2年生の時に中野区に移られたのですね?
橋「そうです。兄貴達もそれぞれ、色んな商売するようになって。長男は用品屋をやって成功してですね。今で言うと、お菓子屋さんの『不二家』ってあるでしょ。それとシャツ、生地屋さんの『ヴォーグ』っていうのと、兄貴がやっていた『みどりや』っていう洋品店があるんですけど、店舗5~6件作るまで成長してね。当時、今で言う青年商工会議所の役員までやっていたくらいに成功したんですよ。皆、それぞれが成功して。そういう時に僕は中学生になっていて、中学2年生の時に学校の先生から『クラスであんまり良い奴とつるんでないな』みたいな話が出たらしいんです。それを父兄会の時に、おふくろが先生から聞いたんですね。私は、母が42歳の時の子供なんです。だから一番可愛かったのかもしれないけど、心配で心配で……。で、兄弟達に相談したら、『遊んでる奴らが悪いんじゃないか』って結論になって、とにかく、『遊ぶ時間を奪うことが大事だ』、みたいになっちゃってね。
そして、兄貴が親父に中野区の呉服屋をプレゼントしたんです。親父が染め職人だったのを呉服屋でもやったらどうなんだってアイデアで、「富士越」っていう呉服店を作ったんですよ。そこが僕のデビュー当時のスタートの場所なんですね。それで、『遊ばせないようにするにはどうしたら良いか』って考えられて、僕も中野に一緒に移らされたんです。で、バス通学になったんで、結局、だんだんと友達に会えなくなってね。それが一つのポイントですね。そして、その次に『遊ばせないために、学校が終わったら何かのレッスンに行かせよう』となったわけです。そして、たまたま、うちの隣の床屋さんの職人さんが『遠藤実歌謡教室』の生徒だったんです。プロにはならなかった人なんだけど、趣味でやっていた。で、その人が『幸夫を遠藤先生の教室に入れられないかね?』って話をしてきたらしいんですよ。兄貴とおふくろがそういう計画を全部決めちゃって。私が学校から帰ってきたら、『今日は出かける』って、強引に連れて行かれて。それが遠藤先生の家なんですよ」
ーーいきなりなんですね。
橋「いきなり! それで『何なんだよ!?』って言ったら、『今日からこの先生のところにあんたレッスンに行きなさい』って言われて。で、遠藤先生とも初めて。で、『君いくつ?』って聞くから、『僕、中学2年です』って言ったら、『若いねー!』って言われて。あたりまえだしね(笑)。それが本当のプロへのスタートですね。そこでレッスンを重ねるようになった。で、友達は全部疎遠になって、没交渉になっちゃって。っていう、環境づくりをされちゃったんですね。だからこれは散々話しているんだけど、私の芸能界デビューっていうのは、無理矢理なんです。どうしてもこのレールに乗れ、これで行けと家族中がしてくれたんで。とっても本人は不満だったんです(笑)」
ーーそれでも「良いかな」と思うこともあったのですか?
橋「いやー、苦痛でした。レッスン3年やったんだけど、もう休みたいなあ、辞めたいなあと思いながら行ってた」
ーーそれでも続けられることが凄いですね。
橋「それが自分でもわからないんだけど……。根が真面目だからでしょう。言われたらちゃんとやらなきゃいけないのかなって。やっているうちに苦痛の半分、面白いなあと思うことはありましたけどね。結果、一日もレッスンを休まないで皆勤賞をもらっていましたからね、それくらいちゃんとやったんですよ。それで高校2年生くらいに、プロとしてやっていくレールを今度は遠藤先生が敷いてくれて」
ーー遠藤先生の歌謡教室はたくさん生徒がいたのですか?
橋「多いですよ。50人から70人くらい。こまどり姉妹も僕の先輩ですから。ちょうど写真一緒に映っていますよ。皆で遠藤先生達と遠足に行って」
ーー遠足があったのですね!
橋「ありますよ。年に1回か2回ね」
ーーそれは楽しそうですね。レッスンは遠藤先生がピアノを弾いて指導をされるのですか?
橋「70人位生徒がいるから、クラス別に分けてね。初期の生徒のレッスンは代稽古の先生がピアノで教えてくれて。そのうちに、予科、本科、研究科ってだんだん上がっていくんですよ。1年ちょっと過ぎて本科になると、本格的に歌を習って、プロになるかならないかっていう選択されてね。僕は、おふくろに相談するもなく、兄貴とおふくろから、『この子は絶対プロにしたい』って話ができているわけですよ。そこでも仕組まれていた(笑)。それで結局は、『わかった、それでやります』って言ったら、今度は『音符を習え』っていうんで、今度は全部ピアノで譜面が読めるように教育されるわけですよ。それが2年目だよね。3年目に入るちょっと手前くらいから、遠藤先生は自分で作曲した僕だけのオリジナルをくれるんですよ。それがレッスン曲になるので、他の学校でもないなと思うくらい、しっかりしているんですよ。だから、70人いる生徒の中でプロになっていく人が多くて。遊びの人は皆、辞めてっちゃいますよね。そうするとまた入れ替わりが入ってくるみたいな。そういう教室でしたね。
それで、本科になるっていう時に、『もうこれからプロ志向になるんだから、これから学校行きながらだけど、ちゃんとキャリアを積めよ』っていうんで、『はい』って、返事するしかないんですよ。そうしてうちに帰ったら、『どうした、今日は? 先生は?』って必ず聞くんですよ、おふくろや兄貴が。その頃って高校生なのでしゃべりたくないですよね(笑)。『いいじゃん、どうだって!』って言うんだけど、『そんなことないよ! 俺たちがちゃんと先生に頼んでるんだから、ちゃんと今日あったことを話せ!』って言われて、無理矢理。『プロになるってお母さんにも言われてるんだから、君もちゃんとやれよ』て言われたって言うと、『ああそう、よかったね!』って喜ぶわけですよ。
それからまた時が経って、ちょうど3年目が始まる高校1年生くらいですね。で、今度は実践を踏んで行こうと。突然、荻窪の夏祭りで素人のど自慢みたいな舞台に出すからと。皆、笛や太鼓で色んなことやってる間に、『では歌のコーナーです』なんて司会が出てきて、そこに何人も歌い手が出てくるんですよ。そこで歌わされてね。で、レッスンした遠藤先生の曲を歌ったんですよ。『若い人の歌はいいね』なんてさんざん言われて。そういうのを何ヵ所かやりましたね。それがお客さんの前での最初ですかね」
ーー記念すべき舞台デビューですね。
橋「いよいよ高校2年生になる時に『そろそろデビューの方向を決めるから』っていうことで。遠藤先生は日本コロムビアでしたから『うちの会社のオーディション受けに行こう』って先生と一緒に行ったんですよ。そしたら、でかいスタジオの中にディレクターが一人いて、『今日は遠藤先生の愛弟子なんで、特別なオーディションを私が受けますから』って言われてね。そこで歌わされたんです。村田英雄の『蟹工船』と『人生劇場』を歌ったら、そのディレクターが僕の顔を見て、『君はいくつなの?』って言うから『はい、16です』って言ったら、『そんなにまだ若いのか!』って言ってね。『先生、ちょっと若過ぎますよ。うちじゃあ第一、村田御大がいるから、こういうのはちょっと難しいかなあ』なんて半分お断りしてきたんですね。そしたら先生がちょっとムッとされてね、『わかった。もううちではいらないんだな』って話になって。『いえいえ、そんなことないんですけど』ってごまかしてたけど(笑)。『よし、もう帰ろう』ってすぐ帰らされちゃって、2人で帰ってきた。そしたら遠藤先生が『次に探そう』って、あちこち知り合いに電話して。ある新聞記者の人に電話をしたら、『ビクターレコード(現ビクターエンタテインメント)なら毎年オーディションやってますから』と。それでビクターに行ったんですよ」
ーーそうだったのですね。そしてビクターでもオーディションを受けられて、デビューが決まったということですね。
橋「そうです」
ーー当時、ビクターはコロムビアと並ぶ名門レコード会社ですよね。
橋「もう、コロムビアはビクターが強敵だったわけですよね」
ーーその当時はどんなお気持ちだったのでしょうか?
橋「まず、コロムビアに落っこった。で、ビクターに行った。その時に遅刻して行ったんですよ。僕は渋谷のハチ公前で先生と待ち合わせして行ったんですが、学校から帰ってきてからですから、15分位遅れたのかな。有楽町の駅で降りて、ここが想い出の場所なんですよ。『松屋通り』っていう通りが有楽町に繋がっているんですよ。『松屋』ってデパートがあって。そこまっすぐ行ったところに、今でもあるんですよ、左側が日刊スポーツっていう新聞社なんですよ。その真ん前がビクターなんですよ。今はもうビクターはないですけど、そこにスタジオとレコード本部っていうのがあって。スタジオに着いたらオーディションの日だっていうのにぞろぞろ人が出てくるんです。『いやー、やばいなあ』って先生が中に行って交渉して『終わっちゃったんですよね』って言うんだけど、さすが遠藤先生だから、ビクターのスタッフも知っていたんですよね。『遠藤実さんですか? じゃあ、特別にお受けしますよ』と。で、一応テープを回して、遠藤先生がピアノを弾いて、また同じ曲『蟹工船』と『人生劇場』を歌った。それが! ビクターには引っかかったわけですよ。
その時ビクターは、和田弘とマヒナスターズとかフランク永井、松尾和子とか都会的だったんです。珍しいわけですよ。コロムビアではさんざんいるから、そのディレクターがここでは面白いと思ったんですね。それで、『即答はできませんけど、後日ご連絡します』と言って終わったんです。で、1週間経たないうちに連絡があって、『ぜひ、うちのほうでもって検討したいということになりました』と先生のところに連絡があって、それを家族に言ったら喜んでねえ。『ビクターからデビューできるかもしれないね』ってなっちゃって。もうおふくろ達は、はしゃいでるんですよ(笑)。でも僕は全部、無理矢理なレールだから(笑)」
ーーその時点でもでしょうか?
橋「正直言うと、その時点でも嫌でしょうがなかったですよ。だから、遠藤先生の熱心さとか、うちのおふくろの支援、家族ぐるみで応援するとか、これは何とも言い難いなと思いながらきちゃった。当時は作曲家が担当でもって弟子を預かる制度があって、ビクターでも10人以上の作曲家がいるんですよ。これが運命の最初で、だれに付けるかってビクターでもめたらしいですよ。
ビクター芸能社っていうプロダクションの課長さんがね『この子は𠮷田学校じゃないとダメだな』って言ってくれたんですって。それは影の話ですよ。当時、“𠮷田天皇”って言っていましたよ。トップのヒットメーカーですから。それで後日、連絡があって、遠藤先生と一緒に𠮷田先生のうちへ行ったんですよ。コロムビアのヒットメーカーの遠藤先生も新進ですけど。かたやビクターの大ヒットメーカーの先生のお宅へ行った。お互いに、初対面です。僕は本当に猫みたいにちょこんと座っていただけでした。それで1週間くらいで返事が来て、『橋君を預かろう』ということになり専属契約を交わすことになったんです。
当時、レコード6社協定っていうのがうるさくてね。全部専属制度なんですよ。で、『専属になるんだから、色々と支障があるかもしれないけれど、とにかく学校が終わって時間が取れたら、ビクターに遊びに来なさい』と。『遊びに来なさい』ったって何のために遊びに行くのかなと思ったけど、月に3回くらいは行ったかな。行くとビクターの椅子に座っているだけなんですよ。廊下でスタッフがバタバタバタバタ行ったりきたりしているんです。オーケストラが行ったりきたりね。それを見るのが楽しかったけど、第一スタジオっていう大きなスタジオで皆レコーディングしているんですよ。こちらはレコード本部なので。なんだか知らないけど、わからない景色を見て。これがしばらく続いた」
ーー収録の見学などもされたのですか?
橋「そういうこともない。ただ『ビクターに来い』と言うだけなんだもの。ビクターもわけのわかんないこと言っているんだよね。要するに、慣れなさいということなんですね。そういう通い方をしたら、今度は𠮷田先生のお宅で本格的なレッスンに入る。それで今まで遠藤学校でやっていたレッスン曲を全部持ってこいということになって。もうオリジナルも20~30曲あったんで、これを全部やろうって言って。今度は𠮷田先生がそれを弾くんですよ。それを僕は全部歌っていくわけですよ。音域とか声質とか、どういう曲が合ってるかっていうのを先生なりにキャッチしようとしたんでしょうね。
それでいよいよ『そろそろレコーディング曲を作るからね』と、𠮷田先生が候補曲を決めて4曲に絞ったんですよ。それが今で言う『潮来笠』と、B面の『伊太郎旅唄』、それから『君恋い波止場』っていうのと『あれが岬の灯だ』っていうこの4曲だったんです。それで、先生に『君はどれが好きかい?』と聞かれて選んだのが、2枚目に発売になった歌なんですよ。『あれが岬の灯だ』っていう、ちょっとブルースっぽい曲かな。でも結局、大人で『潮来笠』に決まっていたんです。そういうのも運命ですよね。決められたレールばっかり(笑)。
それであっという間にレコーディングの日になっちゃって。夢中で4曲レコーディングして。その中から『潮来笠』と『伊太郎旅唄』がカップリングということになって。それで7月のデビュー前にテレビに出ることになって『テレビ出るって、デビューもしてないのにですか?』って思ったけど。当時、『ロッテ歌のアルバム』っていう歌番組があったんですよ。その中のフランク永井ショーのゲストとして、新人で1曲だけ歌うことになった。これが今でもある、代々木の山野美容学校の下の山野ホールというところで。あの場所でもって、玉置宏さんの司会で生中継で毎週やっていたんです。
その日も学校へ『いよいよテレビに出るんだなあ』と思いながら行ったんです。当時、着物なんてまだ着ていませんよ。『潮来笠』なんだけど。上が赤いブレザーだったかな。下が白いパンツで、『紅白歌合戦だな』なんて言ってたんだけど(笑)。それを着て、フランクさんが4~5曲歌った後に僕が出て、後半またフランクさんという番組。生放送ですよ。35局ネット。すごい人気番組でしたね。それに『橋幸夫』って名前を字幕スーパーで入れたんだけど、誰も知らないですよね。玉置さんも、今日出る新人を聴いてくださいっていうような紹介で僕が出るんです。そしたら客席で『キャー!!』と女の子の声がするんですよ。はじめて歌うのに、『えっ!?』ってびっくりしましたけど、夢中で2コーラス歌った。そしたら途中で紙テープがどんどん飛んでくる。それがデビュー1カ月前の日曜日ですよ。こういうことをビクターってのはやったんだよね。当時。ビクターの宣伝マンが考えたんです」
ーー今だったらありえないのでしょうか?
橋「ありえない。よく考えた。サクラをちゃんと用意して、『キャー!!』って言わせて。生放送で、名前も知らない、どこも出たことがない子が初めて出てくるんだから、センセーショナルだよね。こういう売り方、今したらどうだろうね(笑)。こういう思いをしたのがスタートでしたね。そして7月5日にレコードが出る。7月になったら番組も何度か出るようになって、8月になったら、浅草の国際劇場でビクターでオールスター大行進って先輩達の中に僕が入って、今度は生のステージのデビューですよ。その頃にレコードが動き出したっていうんで、売れ始めたんでしょうね。全国にとにかく営業部のほうから『どんどんオーダーが来るよ』って。10月になったら『すげーよ、これは!』になったんですよ。そうしたらもうレコード大賞の候補者だと。だけど、『レコード大賞は無理だな』って言っていたら、結局その時は、和田弘とマヒナスターズと松尾和子さんの受賞となった。でも『あの子がすごく目立つ』って、レコ大の審査員の中で話題になったらしいんですよね。何か賞をつけたらいいんじゃないかと、それで新人賞の第一号なんです、僕が」